第五話






傷は癒えるだろう

けれど その痕は消えない

告白すると

俺は罪人なんだ







叫び声もかき消すほどの荒れ狂う波の音と、立っていられないほどの風の強さを、私は忘れることができないだろう。
それらは唐突に、そしてあっけなく彼女を飲み込んだ。











湿り気を帯びた彼の髪を、私はその柔らかい感触を楽しむように弄んでいた。
波の音をつれて肌にまとわりつくのはどこか人を沈鬱にさせる外気。

―― 一雨来るな。

そんな予感を彼も感じているのか、その視線は挑むように空を見つめていた。
 

「サダル、顔怖い」

「いえ……雲が」

 
サダルの視線を辿れば、鉛色のどんよりとした雲が重たく空を支配していた。
 

「進路を変えたほうがいいな」

 
言いながら私はサダルの首筋に顔を埋め、ひっそりとした口付けを落とす。
サダルの手が微かに抵抗を示したが私はそれに構わない。吐く息を首筋から耳朶へと移すとサダルは身を捩った。
そっと頬に手を寄せれば、重く冷たい感触が手の甲を打った。雨だ。
 

「来たか」

「早いですね」


その言葉を合図に空気がサッと変わり、互いに小さく頷きあうと我々は走り出した。
ちょうどサルメも船室から出てきたところで、サダルと目を合わせると二人はさすがといった連携を見せて帆を動かした。強風のため方向転換にはかなりの力を要するが、一旦帆の向きを変えればあとは風が運んでくれるはずだ。
細身の体型のくせに、よくもこの風の中帆を動かせるものだ。私の手を全く必要としないほどの彼の慣れた動きに、ぼんやりとそんなことを思った。
 


進行方向を変えて、十分な時間が経過したように思ったが、その嵐は中々我々を解放してはくれなかった。それどころか我々の焦燥を楽しむかのように益々勢いを増している。
船室の木造の天井が色濃くなり、ついに大粒の水を滴れさせたときに、いよいよおかしい、と勘付き始めた。

空気が湿っぽくなってから、鉛色の雲が頭上を覆って激しく雨が降るまでにも時間がかからなかった。風ははじめから強く、そして今も悪霊のような恐ろしい声とともに我々の船を揺らしている。そして、我々はその風を利用して二度ほど進路を変えたのだ。それなのに、未だにこの嵐から抜け出せないのはどう考えてもおかしかった。


船室でひっそりと嵐が過ぎるのを待っていた我々は、初めこそいつものように雑談していたものの、今では誰も言葉を発すことはなかった。

ただの嵐ではないことに、誰もが気付いている。この嵐は避けることのできないものだ。このままではどうなるだろう。絶望的な予感を、誰も口にすることはできなかった。


ふらり、と沈黙にまぎれてヒメが立ち上がり、甲板へ出たのと、船室が瞬くように真白くなったのはほぼ同時だった。あたりが暗闇を取り戻した頃には、ヒメの姿はなかった。


「雷……。近いな。……オウス?」

「オウス!!待て!!」


目を細めてサダルが呟いた言葉はサルメの叫びにかき消された。私は呼吸をするのも忘れて、立ち上がると同時に走り出した。サルメの制止の声も聞かず、船室を飛び出した。すれ違いざまに見たサダルの呆気にとられたような顔から想定するに、私はよほど取り乱していたに違いない。


「ヒメ!!何をしている」


体をうがつような強風が私の動きを止めた。船の揺れに立っていられず、私は近くにあった柱に必死でつかまり、船首へと静かに向かっていくヒメに声を張り上げた。
ヒメはゆっくりと振り返った。彼女の身に着けた純白の衣類や、首飾りが風に揺れて激しく踊っていた。だが彼女自身はしっかりと地に足をつけ毅然と立っており、この風も荒波も、彼女の進行だけは邪魔をしていないようだった。


彼女の口元がやんわりと動いて何かを伝えた。私の耳は何も捉えなかった。だが彼女の言葉は確かに私の頭の中で、懐かしい旋律のように響いた。


――永久に、あなたのそばに。


船の前方で、波が高く壁を作った。私はこのような波の形を見たことがなかった。その壁が崩れ、船首にたたずむヒメを飲みこんだ。水と水が打ち付けあう、空気が裂けるような音がひときわ大きく鳴ると、それを合図に海は静まり返った。

そうして彼女は死んだ。